序にかえて
 
 偶然にも一編の与太文を手にした。
 本来なら、顧みられる事のないまま、それは地球温暖化に貢献していたことだろう。
 しかしながら、敢えて公開に至ったのは、この弄筆とも思われる文の中に自我の崩壊及びその過程における一連の経過が記されていたからである。一定不偏の立場から客観的に論理を展開するのが論文であるのならば、一言、一文毎にその主義主張、立脚点が変動していくそれを、我々は一体何と呼べばいいのであろう。揺らぎの具現化、自己の正当化への悪あがき、それとも・・・・・・。その答えは、読者諸氏に委ねたい。
 因みに、そのタイトルは
 
『オバカイズム宣言』: Manifeste du Obakaisme (esquisse)
あるいは、我は如何にして心配するのをやめ彼等を愛するようになったのか


 である。
 
 
 
 追記
 
 私は、以下の宣言文に一抹の不安と不信感、そして何よりも戸惑いを覚えずにはいられない。なぜならば、それはいかなる理由からかこの文の著作者が私になっていることに他ならない。



『 オバカイズム宣言 』



 人間がその脳ミソを機能させて以来、我々はおバカに悩まされ、笑わされてきた。
 今までに幾多の人々がその命を捧げ、おバカを根絶すべく戦ってきたことであろう。しかるにである、今もってなおおバカは絶滅していない、否それどころかおバカはかえってその勢力を増大させているように見受けられる。かつて、いくつもの種を絶滅に追い込んできた人間がその叡智を持ってしても駆逐できないおバカとはそも何であろう、そしてその存在理由は、目的は一体何であろう。
 
 
 太初、太極から両儀すなわち陰と陽が生じ出たように、太虚からはヒトと馬鹿が生まれ出た。当初からヒトは馬鹿の即効性の破壊力に刮目し、ある時は、畏れおののき、またある時は、公然と反旗を翻し全力を持ってこれと戦ってきた。残念なことに、これは明らかに誤りであった。目先の事象にとらわれて、その背後に潜む本質はおろか全体像さえ把握することを忘れ、ただ単に我々がヒトとして持って生まれた本能、すなわち理解不可能な物に対する恐怖と拒絶に抗えずにいる内に、第三の刺客は着実に我々の懐深く侵入し蜂起の時を伺っていたのだ。言うまでもないが、第一の刺客はヒト自身、第二の刺客は馬鹿である。
 
 彼等の期待に違わずその時はやって来た。我々に夜明けが訪れたのである。そう、我々は道具と言葉を(この時以来、我々はヒトから人間、人類へと進化を遂げたのである)手にしたのである。これは同時に、図らずも我々は最大の敵おバカに対して道具と言語という最強の武器を与えてしまった事を意味する。最強の武器を得、立ち上がった彼等に我々は為す術がなかった。なぜならば、生来の才なのか、彼等はそれらの扱いに非常に長けていたから(今もってなお、彼等は道具や言葉から次々と新しい効果用法を生み出し続けている)である。彼等独自の論理過程から、我々が想像だにしなかった新しい機能・用法を次々と発見し、更に恐るべき事に彼等はそれを何の躊躇いも疑問もなく瞬時に実行に移すことにより、我々を次々と恐怖と狂気の縁に追いやってきた。
 かくして、我々は突然の伏兵に対して、幾許の猶予、何の知識(その存在の目的、意味を認識する以前に)もないまま、彼等の存在を容認せざるを得ない状況に追い込まれてしまったのである。彼等の放つ圧倒的な情報量の多さは、我々の理解力、許容量を遙かに凌駕していたのである。それは、主に我々は情報を一旦脳を経由して咀嚼し、分析、類推もしくは過去の反応に照らし合わせて理解、解釈し初めて反応し行動を起こすが。彼等は解き放った情報の行方には、いや、それ以前に情報には全くの関心を示さないことによる。
 我々が様々な情報(たとえば、呼吸、体温調節、エネルギーの過不足等)を受け入れて生命を維持するのに対し、彼等は情報を発信することによって生命を維持しているのである。
 受け取ることによって生きる者、与えることによって生きる者、今後どちらにより多くの可能性があるのか、いまさら言うまでもないであろう。
 
 
 ここである疑問が生じる、おバカには死角はないのであろうか。
おバカがその真価を発揮するのは、あくまでも他者に対する相対的距離が測れたときに限ってのみであった。馬鹿と異なり、おバカは何にも増して対象すなわち我々を欲しているのである。彼等の行為行動が影響を及ぼすのは、彼等の武器が有効なのは、我々のみなのである。彼等が我々を次々と恐怖と狂気の縁に追いつめながら、決して我々にとどめを刺さないのには、重大な理由がある。我々の存在無くして、彼等に生きる道はないのだ。彼等を彼等たらしめるには何よりも我々の存在が必要なのだ。もう一度言おう、彼等が光り輝くのは我々あってこそなのだ。おバカの中にあっては、個としてのおバカはたんなる群衆の一構成要素にしかすぎない。なぜならば、おバカが放つ数々の驚異は、他のおバカにとっては日常生活で提起される様々な選択肢に対する当然の帰結として認識され、それ故にその威力、破壊力は何ら効果を発揮しないのである。驚くべき事に、おバカには『おバカ』と言う概念自体がないのである。我々がおバカと畏れおののく行為は実は彼等にとっては当たり前の行為であり、すなわち日常なのである。
 では、おバカは我々との共存を望んでいるのであろうか、それともただ単にその存在を主張したいだけなのであろうか。その答えは両方共に否である。あくまでもこの疑問は、我々の立場においてのみ有効なのである。そもそもこの疑問を抱くこと自体、我々が如何に彼等を理解していないか、彼等を誤解しているのかの証左でもある。彼等に『おバカ』と言う概念がない事からも明らかなように、彼等は我々と彼等を区別していないのである。彼等にとって彼等と我々を識別することは不可能なのである。彼等は我々を同族と見なし同じように接していたのである。すなわち、彼等にとって前述の疑問は意味のないどころか、成立さえし得ないのだ。
 ここにすべての答えが隠されていたのだ。我々がおバカに対してとってきた行動は全くの無意味、すべては徒労だったのだ。我々はおバカに対して、対抗手段を持っていなかったのだ。もし、彼等に『おバカ』と言う概念があったのなら、我々は彼等にとってさぞかしおバカに見えたであろう。
 
 かつておバカはヒトに依存していた。おバカはおバカという人種を作り上げ、築き上げる事により伝播繁殖してきた。しかし、ここにきて我々の中に変化の種子が現れた。我々人類が今日ここまで、自然にそして他の生物に、淘汰されずに繁栄してきたのはその適応能力の高さである。我々は無意識下でその適応能力をおバカに対して使い始めたのだ。この事により我々はいつからか行為、行動原理としてのおバカを人種としてのおバカと同一視するようになったのだ。おバカは何をやってもおバカ、おバカのやることだから等の画一的な言葉で締め括り処理するようになった。この時点で個としてのおバカは相も変わらず猛威を振るっていたが、種としてのおバカの脅威は急速に失われつつあった。我々を刺激しすぎたことにより、彼等は自らの手で自分たちを進化の袋小路へと追い込んでいったのだ。
 
 
   註) 一部欠落。
 
 
 顕在化しているおバカなどはこれに比べて、なんと他愛のない物なのだろう。
 我々が顕在化しているおバカに気を取られている内に、彼等は一体何をしていたのか、実は彼等は深く静かに潜行し着実にその勢力を広げていったのである。そう、まさにこれは我々が馬鹿に気を取られている内に顕在化おバカがとった戦略行動と同じである。我々は同じ相手に、同じ手法で二度までも。そして、彼等は我々が気付かぬ内に既に我々の中に隠れ潜んでいたのである。
 それでは、なぜ彼等はかつての同胞のように公然と行動を起こさないのであろう。彼等は道具と言葉に変わる新たな武器を未だ手にしていないのか。いや、これは間違いである。その答は簡単である。もはや彼等は、新たな武器を必要としていないのだ。彼等は武器を手に公然と蜂起するより遙かに効率的な手段を見いだしたのである。
 彼等は個としてのおバカを捨てたのだ。彼等は群としてのおバカを捨てたのだ。彼等は種としてのおバカを捨てたのだ。その代わりに彼等は行為、行動原理としてのおバカを選択したのだ。その代わりに彼等は思想、思考としてのおバカを選択したのだ。
 残念ながら我々がそれに気付いたときには、すべてが手遅れであった。もはや為す術はない。それでは知らぬ間に宿主として選ばれ、知らぬ間に寄生を許してしまった我々としてはいかように対処すべきか。残念ながら現時点においてはその答えは不明である。
 共生、確かにそれは我々に示された選択肢の一つである。駆除、これもまた選択肢の一つではあるが、宿主の精神的、肉体的安全を考えると殆ど不可能に近い。当然の事ながら宿主ごと、というのは人間として許される行為ではない。
 一方、予防に関してはどうであろう。今のところ有効な予防手段はない。確かに潜在化おバカはすべての人間に寄生するわけではない。固い頭や柔らかすぎる頭には見向きもせず、ある程度柔軟な頭の持ち主にしか寄生しない。しかし、これを実行することは、人間としての尊厳を捨て去ることを意味する以前に、今使っている脳を安全かつ人為的に突然固く、あるいは異常に柔らかくする事は不可能である。
 幸いなことに、彼等は常に活動しているわけではない。寄生体にとって何よりも重要なこと、それは宿主との共存をはかること、宿主に過大なダメージを与えないこと。これは宿主の破滅が自らの破滅に直接的につながるからであろう。この事から鑑みるに、この先も彼等は一斉蜂起のような蛮行に出ることはないだろう。
 
 
   註) 一部欠落。
 
 
 一見何の変哲もない日常こそが彼等の好むところであり、真の住処なのだ。冷静に考えてみたまえ。客観的に日常を振り返ってみたまえ。会話の端々に、動作の隅々に彼等が潜み微笑んでいるのがわかるだろう。
 繰り返し言おう。つまるところ、我々はいかなるおバカに対しても対抗手段を持っていないのだ。既に我々は負けているのである。我々が取りも敢えず長らえているのは、今はまだ我々に利用価値があるからなのである。もし我々に取って代わる新たな存在が現れたら、彼等は何の躊躇いもなく我々を切って捨てるであろう。
 
 
   註) 一部欠落。
 
 
  かような事態が示すこと、それは改めて彼等との関係を考え直す時が来た事を意味する。
 今我々に出来ること。それこそ我々がしなければならないことである。 もう意味のないことは、止めようではないか。もはや、心配しても手遅れであるし、心配することもないのだ。彼等は長い時間の中で新たな生きる道を答えを見いだし、歩み始めたのだ。次は我々の番である。時は我々を待ってはくれない。このまま答えを出せずにいたら、時は我々を置き去りにしたまま流れ去っていくだろう。これからも続くであろう長い時間に対し今度は我々が全存在をかけ、その答えを提示し歩き始めなければならない。
 
 
 
 
 
 同志よ、立ち上がるときは来たのだ
 我は我がオバカイズムの旗を扉にかかげ、汝等を迎入れん
 集え、我がオバカイズムの旗の下に
 彼等との共生体が真の次代の担い手となりうるのか
 彼等との共生体が我々の疲弊し閉塞した世界を打ち砕いてくれるのか
 それとも、彼等は我々を置いていずこへと去っていくのだろうか
 彼等の行く末を共に見据えようではないか
 同志よ、時は満ちたのだ
 我々はその道を示すことによって、我々の存続権を明示しなければならない
 そして、我々は我々として歩き始めなければならない
 何よりも我々が我々であるために、我々が我々であり続けるために
 おバカがおバカであったように


 


 あとがきにかえて
 
 かつて、某酒場で某じいさんがかのようにのたまわった。
 
 『降る夜の漏りや、自己破滅型の人間は確かに恐ろしいけど
  無自覚の巻き込み型自己崩壊人間に比べりゃそんなもん・・・・・・』

 まさに然りである。                ・・・・・・  〜 さばれ 〜
 
 
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二寸庵
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